Comment on 6月 13th, 2008.
日本では、初期段階で、2001年の大阪池田の小学校で起こった児童殺傷事件と似ているとの報道もまりました。犯人の宅間守は2004年9月に死刑が執行されています。
知っていましたか?
あの事件の犯人の死刑が執行されました。って報道はそこまで騒がないですよね。
事件の概要だけを語り、その後の結末までは死刑賛成反対論者が居るからかそこまで大々的に取り上げたりしないですよね。
この間、ニセ札を小遣い欲しさで使用した中学生(女子)がこの間捕まりました。知らないんじゃないですかね。ニセ札は作成しただけで罪になるとか。どれくらいの刑が科せられるとか。
想像力が欠如している様な気もします。
この犯罪をしたら自分がどうなるか。
相手はどう思うか。
その家族や友人はどう思うか。
自由を履き違える国ではあってほしくないですね。
Comment on 6月 14th, 2008.
宅間守の刑執行は当時それなりに報道されたようにも記憶してますが、まあメディアの報道にはどうしても様々なバイアスがかかることは避けられませんから、そこから何を読み取り、どう取り込むかはそれもまた人それぞれですよね。
しかし、今回の犯人は25歳の日本人ですから、無差別に複数の人間を殺めれば死刑にあたる可能性が高いことは確実に理解していたと思います。
ただ確かに、犯人がおそらく理解できていなかったことは、何の過失もない他人の命を、理由もなく突然奪ってしまうことがどれほど罪深いことか、そしてその罪は仮に自らの死をもってしたとても、ただの1%だって償うことなどできないのだ、ということでしょう。
彼は、自身は健康で仕事にもありつけていた。家族も健在だし、職場には同僚も上司も、メールできる友人だって何人かいたという。買い物に行き、店員と談笑できる社交性だってあった。それにもかかわらずです。
唐の時代の有名な詩人、李白の詩にこんな言葉があります。
『天生我才必有用』
これは、「天が私を生んでくれた以上、必ず世の中の何らかの役に立つためである」といった意味で、自分の大好きな漢詩の一つですが、これは今回の犯人のために引用したいわけではありません。
犠牲となり亡くなられてしまった方たちの途方もない無念を表すためです。
彼らは週末の楽しい買い物中に、白昼路上に倒れるために生まれてきたわけでは断じてない。犯人よりまだいくつも若い人だっていたのに、詩仙李白が残したこの不朽の名句が彼らの鎮魂歌とは成り得ないことの何たる無常。あまりにも絶望的な無念です。
だから悔しいけど、「どこかで何とかする機会があったのではないか・・」とどうしても考えずにはいられないのです。
女子中学生の方は決定的な違いがあると思いますね。
それは彼女がまだ子供だったということです。子供は基本的に大人に育てられます。そして繰り返しになりますが、生まれつきのニセ札犯はいません。
なので、この事件の詳細は知らないのですが、もし彼女がごく一般的な家庭環境にあったのだとしたら、強く罰せられるべきはその両親だと思います。
自分がもし彼女の知り合いであったとしたら、「いかにそんなチンケな事が行うに足らないつまらないことか」、「いかに若い君にしかできないこと、君ならではの素晴らしいことが他にたくさんあるか」といったことを自分が知っている範囲で教えてあげたいし、彼女からは代わりに、どうしてそんな行動を思い至ってしまったのか、その過程でどんな出来事があったのか、どんな心情になったのか・・などを素直に教えてもらいたいです。
自分も偽札の製造・所持が禁固何年いくら以下の罰金なのかは理解してませんが、大人がまず教えてあげないといけないのはこういったことでしょう。日本では、希望に向かって努力する自由は無限にあるんですからね。
ただ、今の日本はそういう志や自我の無い馬鹿な大人が増え続けている、という危惧は強く持ってます。
Comment on 6月 23rd, 2008.
私もひとりひとりの大切な人生を奪った犯人を擁護するつもりもないし、同情の余地もないと思いますが、
彼のそばには誰一人、話をきいてくれる人がいなかったということが、彼を励ましたり、勇気付けたり、認める人がいなかったということが
ただ、ただ、切ないです。
彼はネットでコメントを書いても誰も反応しないことに対して「ネット上でさえも俺は無視されるのか」
と書いていました。
自分の気持ちを話せる人が一人もいないって…。
罪を犯した彼だけでなく、「自分は誰からも認められていない。必要とされていない」
って思っている人、恐らく、予想以上に多いと思います。
私は仕事でもプライベートでも自分が後ろめたいと思う行動をしそうなときに、必ず思うことがあります。
「自分のことを信頼してくれている人や家族に顔向けできないようなことはできない」と。
大切な仲間や家族の存在が歯止めになることもあるんじゃないかと思います。
SEBBRAさんの
>「どこかのタイミングで、何とかならなかっただろうか」
>という思いが強くこみ上げてきて、苦しい気持ちになります。
>どこかのタイミング、
>それは犯行の直前なのか、それとももっと以前なのかは分か>らないけれど。
を読んで思いました。
一見、他愛ない、何気ない会話のようでも、言葉を交わすってことは、自分はひとりではないってことの証であると。ひとつひとつの会話は、何の意味ももたないことのように感じても、このひとつひとつが積み重なることで、いつのまにか、人との間に大きな信頼が築けているんじゃないかと。
私は、この事件を通じて、親友とか家族とか特別な関係性に関わらず、自分が縁あって関わった人たちと、他愛ない会話をたくさんして、他愛ない会話でふと気付いた変化を見逃さないでいたいって思いました。
Comment on 6月 25th, 2008.
>福ちゃんさん
コメントありがとうございます。
そうですね。そういった孤独感や疎外感を悩んでいる人は、今の世の中ではすごく多いでしょうね。
自分にも経験はあるし、きっと福ちゃんさんもそうなのだろうと想像します。
そして、どうにかしてそうした経験を乗り越えたあとは、他の人のそういう気持ちを理解してあげられるようにもなるのに・・と考えると確かに切ないですよね。
福ちゃんさんの考え方はとても優しいですね。自分はどうしても被害者側の視点からしか思考できていません。
信頼してくれている人を悲しませるようなことはできない。そういった人は犠牲者の方々にとってだってやはりいたわけで、そして皆そんなつもりなんかなかったのに、でも現実にはたくさんの人達が途方もない深い悲しみに襲われてしまっている。
今回、犯人が遺族の方々に与えた苦しみに比べれば、彼自身が感じていた苦しみはあまりに稚拙で小さいものでしょう。
自分には彼の境遇は、立派な仕事も、住まいもあって、何一つ問題なかったようにも思えます。もちろんそういう物質的なことじゃないんだということも分かるし、だからこそ彼我の違いはそんなに大きくないという気持ちにもなるのですが、でも、人の命が誰かによって突然奪われてしまうということは、絶対に避けなければならないことだから。そんなことだけは、絶対に。
孤独感に悩んだりすることも、自分はそれはとても人間らしい、素晴らしいことだと思うのです。
辛いだろうけど、同じような境遇でも何の自我もなく、ぼーっと過ごしているよりはずっと人間らしくていい、それでこそ人生だと。そしてゆっくり考えて、ゆっくり寝て、ゆっくり少しづつ行動できる時間はこれからまだいくらでもあるよと、出来ることなら彼にはそんなことを伝えてあげたかったです。
でも、そういう次元の話をする以前に、福ちゃんさんの言われるような、まずは気さくなコミュニケーションというのが大事だということは自分も同感です。世の中にはどうしても信頼関係が築けない人というのもたくさんいるけれど、せっかく一度でも袖をすりあった者同士、何とかできるものなら何とかしたいですよね。
福ちゃんさんの笑顔が一人でも多くの人に届くことを願っています。
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